100回 観光王・油屋熊八の足跡2「由布院温泉」

亀の井別荘

由布院温泉

熊八は
アメリカ、カナダ、メキシコ
と大陸を巡った
経験があることから、
地域から地域へ
横断することに積極的でした。
原点となった関西から
九州の別府温泉ですが、
さらに九州を横断します。

別府は東洋のナポリと呼ばれ、
別府湾の西側の背景には
鶴見連山があり、
海と山に囲まれた
華やかな温泉地です。

鶴見連山を奥に入ると、
“豊後富士”と称される
美しい由布岳が姿を見せます。
山麓には
由布院温泉が広がります。

熊八は山間の静寂感のある
由布院に注目したのです。

常々、定点でなく奥行きが必要
としていたこともあり、
別府の奥座敷
という位置付けにします。

金鱗湖畔「亀の井の別荘」

由布院温泉では、
加賀温泉出身の中谷巳次郎
と共に「亀の井別荘」を興し、
与謝野鉄幹・晶子夫妻ら、
文人墨客や
政財界の客人を招くなど、
別府とは違った趣の宿として、
由布院温泉を世に広めたのです。

宿は金鱗湖畔に、
敷地は広く、樹々で覆われ、
小川に沿って茅葺の離れがあり、
茅葺の建物のなかに
書院造り風の客室が二部屋、
四季折々の風情を
味わせるつくりでした。

内湯はなく、
現在はありませんが、
外の金鱗湖畔に浴場が
つくられていました。
風呂には小石が敷き詰められ、
混浴ではなく、
男湯と女湯は敷板で分け、
湯船の中は仕切られて
いませんでした。
今では、関係者以外知る人も
ないようです。

当時の状況を
雪の結晶の研究で著名な
中谷宇一郎教授が
随筆に残しています。
中谷巳次郎が叔父にあたるため、
由布院に何度も訪れ、
由布院のことを随筆に
書き残しています。
湯船に小石が
敷き詰められていた浴場は
昭和30年代ころまで
続いていました。
*中谷宇吉郎(なかや うきちろう)
1900年-1962年
明治33年-昭和37年
日本の物理学者、随筆家

茅葺の建物は老朽化もあり、
昭和60年頃には取り壊され、
大浴場はそれ以前に、
敷地内に岩風呂として
建て変えられていました。

由布院運動

昭和45年頃に
始まった由布院運動
玉の湯の溝口薫平、
夢想苑の志手康二、
亀の井別荘の中屋健太郎
氏ら三人
が中心となった由布院運動で
由布院温泉は
新しい姿を見せました。

由布院は人気観光地として
多くの人に知られ、
金鱗湖畔の亀の井別荘は
象徴的な存在の場所
ともなりました。

映画祭、音楽祭などの
文化活動や
牛一頭運動・絶叫大会
などの展開は
熊八氏のアイデアとともに
中谷巳次郎のDNAが
伝わっています。

壮大な構想

熊八のアイデアは
まだまだ続きます。

1921年(昭和2年)、
「九州大国立公園実現提唱」
をしました。
後の「やまなみハイウェイ」
の原型です。
別府~湯布院~くじゅう高原
~阿蘇山~熊本~
雲仙~長崎までのルートで、
1963(昭和39)年に
有料道路別府阿蘇道路
が開通し、
ルートの開発が進みました。

東京から京都、
大阪から船で九州の玄関口、
別府温泉へ。
さらに、
別府から長崎までの
ルート観光です。

熊八の九州横断構想には
まだ続きがありました。

アメリカから日本、東京~長崎へ、
さらには
長崎から上海航路での
上海へという中国までの
アイデアもあったのです。

奥行きを求める熊八ならば、
中国からロシアへ、
ロシアからシベリア鉄道で
西洋へという
アイデアもあったはずです。

熊八は壮大なイベント屋であり、
実業家でした。

熊八が活躍したのは
大正、昭和初期の
時代でしたが、
熊八の足跡は
アイデア、実行力、
イベント力、構想力、
開発力など、
現代でも通じるものとして
紹介にいたりました。

熊八の観光に対する
「定点から奥行き」
の考え方は、
平面から立体的なもの、
内面的な奥深さや深み、
背景に隠れたもの、
見えない何かなど、
すべての発想に
必要な考え方の一つです。

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