100回 観光王・油屋熊八の足跡1「別府温泉」

別府温泉
油屋熊八

「何でもヒント」
は100回目をむかえました。
100回目は特版で、2回に分けます。

ビジネスや生き方に
参考になる記事です。
別のブログで
掲載したことがあるので、
既読の方があるかもしれませんが、
内容を補足して掲載します。

観光王・油屋熊八の
壮大なアイデアや実行力など
参考になるはずです。

「生きてるだけで丸もうけ」

油屋熊八の功績を偲び、
十八代目 中村勘三郎(故人)
によって
『喜劇・地獄めぐり』は
2002年(平成14年)に
東京、大阪で上演されました。

大好評を博した公演によって、
あらためて熊八という人物が
世に改めて紹介されました。

油屋熊八のこと

熊八は別府の観光王
といわれていますが、
縦横無尽なアイデア、
実行力、イベント力、
構想力、開発力は
日本だけでなく
世界にも轟くほどのスケール
といっても過言ではありません。

油屋熊八は伊予国宇和島城下
(現愛媛県宇和島市)で、
1863年・文久3年に生まれ、
1935年・昭和10年、
72歳で逝去されました。

かなり以前、
NHKで油屋熊八の功績を
紹介する番組があり、
この内容などをもとに
記憶の範囲で足跡を
補足も加えながら辿ります。

熊八は手が大きいことを自慢していたようで、
集合写真などでは手を開いて写っている写真が紹介されていました。
自身の手形もありますが、
検証した結果、
大きいことは大きいようですが手形を押すときに、
指先を伸ばした跡がみられるなど愛嬌もあったようです。
手の大きさを競う「全国大掌大会」を開催し、
相撲取りも呼び寄せるなど、
現在で言うところのイベントの先駆者でもありました。

アメリカに渡ったこともあり、
言うことも大きく、
ともすればほら吹きや山師的な人とみられてもいたようです。

熊八と別府温泉

熊八が別府に住むようになったのは
明治の終わりころ。

昨今は外国からの旅行者が
日本中を訪れる
ようになっていますが、

熊八は外国人の誘致を
計画しました。

昔は外国人が来日しても
東京と京都の観光が中心で、
地方まで旅行する外国人は
少ない時代でした。
そこに目をつけ、
別府の温泉を活かすアイデアを
思いついたのです。

当時は外国人のなかでも
アメリカからの観光客が多く、
アメリカからの旅行者が
東京から京都へ、
その後に
大阪港から別府港まで
汽船でのルートを考え、
関西汽船を興したとされています。

別府では訪れた外国観光客の
受け入れのために
洋館が必要であり、
それまでの小さな亀の井旅館を
洋館にして亀の井ホテル
をつくりました。

関西汽船は当然、
外国人だけでなく、
国内旅行においても
関西汽船による観光客の増加は
いうまでもありません。
戦後、
関西への修学旅行にも利用され、
関西からは別府温泉への入湯団
などで大盛況でした。

別府観光では有名な話として、
全国で初めて
女性バスガイドによる案内の
定期観光バスの運行を始めました。
また高崎山の猿を
呼び寄せる餌付けがされはじめ、
高崎山をコースに入れ、
定期観光バスの基礎つくりました。
杭を打ち込むのが好きなのか、
高崎山に
「亀の井ホテル」の名の入った
杭を打ち込んでいます。

別府への観光誘致においても
別府市に別府宣伝協会をつくり、
「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」
というキャッチフレーズを元に、
当時の宣伝課長、梅田凡平を
桃太郎の衣装にして富士山に登り、
ここでも標柱を
富士山山頂付近に立てるなどして、
全国各地を宣伝して回りました。

熊八の功績

熊八による観光事業の功績で、
熊八が亡くなって以降も、
別府は大きな発展を遂げ、
別府温泉はかってない
賑わいをみせ、
周辺の商店街も活気を帯び、
不夜城とまでいわれました。

別府は為替が変動制になる前の
昭和40年代ころまで、
外国観光客で賑わいを
みせていました。
日本交通公社(現JTB)による
外国人向けの
英語ガイド付き
サンライズツアーによる
地獄めぐり、高崎山など
市内観光が好評を博していました。
中学、高校の英語教師の方も、
自身の語学力を磨くために
ツアーに参加されていました。

また、当時の別府市は、
海外に行く渡航者数においても
県庁所在地の大分市より
渡航者数が多いなど、
インバウンド、
アウトバウンドともに
日本の国際都市の
一つの町でもありました。

最近の円安による
インバウンドの増加で、
別府温泉においても
外国人に評判を呼び、
多くの外国人が訪れています。

このように熊八の功績は
別府に大きな遺産を残し、
観光都市別府の
発展に寄与しました。

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